東京地方裁判所 平成5年(行ウ)351号 判決 1995年12月21日
原告
戸島栄子
右訴訟代理人弁護士
河合弘之
同
安田修
同
久保田理子
同
原口健
被告
国
右代表者法務大臣
宮澤弘
右指定代理人
松村玲子
外六名
主文
一 原告が日本国籍を有することを確認する。
二 訴訟費用は被告の負担とする。
事実及び理由
第一 原告の請求
主文同旨
第二 事案の概要
本件は、原告が、いわゆる中国残留日本人孤児であった原告の父は原告の出生前に自己の志望によって中華人民共和国(以下「中国」という。)の国籍を取得して日本国籍を失っていたから原告は出生によって日本国籍を取得してはいないとする被告に対して、父が自己の志望によって中国国籍を取得したことはないとして、現に日本国籍を有することの確認を求めている事案である。
一 当事者間に争いのない事実等(なお、書証によって認定した事実については、適宜書証を掲記する。)
1 戸島一行(中国名劉万財、以下「一行」という。)は、昭和一二年一二月一一日、日本国民である父戸島幸一、母戸島ふみの四男として滋賀県高島郡において出生し、生来的に日本国籍を取得した。
2 一行は、昭和二〇年ころ、両親らと共に当時の満州国に渡ったが、昭和二〇年冬ころ、家族と別れ、中国人である養父母の下に預けられることとなった。(甲四、一三号証の二)
3 一行は、昭和三七年一月一日、中国の方式により中国人である崔玉蘭(以下「崔」という。)と婚姻した。
原告は、昭和四九年二月六日、右夫婦の二女として出生した。
4 一行は、昭和六〇年一一月三〇日、第九次中国残留孤児訪日調査団に参加し、その身元が判明した。一行は、平成元年七月一四日、本邦に帰国し、福島中国帰国孤児定着促進センターに入所した。
5 一行は、本籍地を滋賀県高島郡新旭町大字新庄八九五番地とする戸島幸兵衛の戸籍に記載されていたところ、昭和三七年ころ、戦時死亡宣告の裁判が確定してその戸籍から除籍されたが、昭和六一年四月一〇日右宣告取消しの裁判の確定により、そのころ戸籍が回復された。
6 一行は平成元年一一月一七日、崔と婚姻した旨の報告的婚姻届を郡山市長に提出した。同届の受理に際し、法務局の担当官が一行の日本国籍喪失の有無について調査したところ、一行は自己の志望によって中国国籍を取得して昭和四七年九月二九日に日本国籍を失った者であると認定され、平成二年三月一九日、その戸籍から除籍された。
7 一行は、平成五年一〇月二日に病死した。
二 争点
一行が生来的に日本国籍を有していた者であり、原告がその子であることについては当事者間に争いがなく、本件の争点は、一行が、中国在住中に自己の志望によって中国国籍を取得し、昭和五九年法律第四五号による改正前の国籍法(以下「旧国籍法」という。)八条(現行の国籍法一一条一項と同一条文)の規定によって、原告の出生前に日本国籍を失ったものと認められるか否かの点であるところ、この点に関する当事者双方の主張の要旨は、以下のとおりである。
1 被告の主張
(一) 中国では、中国国籍法(一九八〇年(昭和五五年)九月一〇日公布)の制定前における外国人に対する中国の国籍の付与については、成文の法規は制定されていなかったが、外国人に対しても、その居住地の県又は市の公安局を通じた申請によって、中国国籍を付与する制度が存在していた。
(二) そして、一行の日本国籍の有無を調査すべく、福島地方法務局郡山支局の担当官が、平成二年一月九日、いわゆる中国残留婦人である甲野春子(以下「甲野」という。)の通訳により一行及び崔から事情聴取したところ、一行は、一九六一年(昭和三六年)に居住地である前進街農場の村長秀之清に代筆してもらい、北京の国務院に中国国籍の取得を申請したが、中国国籍を取得したのは、中国の公安局等に強要されたからではなく、中国国籍を取得すれば「日本人、日本人」といわれていじめられないと思ったからである旨の供述をし、崔は、一行は、肉親を探すため中国国内を旅行する際にいちいち公安局の許可を得るのが大変なので、自ら入籍許可の申請をした旨の供述をしており、また、両名とも、一行が外国人であることを理由に職業の選択等で差別を受けたことはない旨の供述をしていた。さらに、同年二月三日、担当官が、中国人である宋淑子(以下「宋」という。)の通訳により、一行に対し、同年一月九日の供述内容に誤りがないことを再度確認した上で、同人が日本国籍を喪失していることを説明し、国籍喪失届の提出を指導したところ、同人はこれを承諾して、同年二月二二日、郡山市長に国籍喪失届を提出したのである。
よって、一行は、一九六一年(昭和三六年)ころ、自己の志望によって中国国籍を取得したものと認められる。
(三) ところで、日本国籍を有していた者が、我が国による中国政府承認前に中国国籍を取得した場合には、その中国の国籍の取得の効果は我が国が中国政府を承認したときに顕在化するから、同人は、旧国籍法八条の規定により、我が国が中国政府を承認した日(昭和四七年九月二九日)に中国国籍を取得したこととなる(昭和四九年一〇月一一日付け法務省民五第五六二三号民事局長回答)。
(四) したがって、昭和四七年九月二九日をもって中国国籍取得の効果が生じた結果、一行は、同日、日本国籍を失ったものである。
2 原告の主張
(一) 一行は、自らの任意の意思によって中国の国籍への入籍手続を行ったことはない。
確かに、一行については、一九六二年(昭和三七年)二月一二日付けで中華人民共和国許可入籍証書(以下「本件入籍証書」という。)が発行されており、入籍証書は、中国国籍への入籍を希望する外国人本人の申請に基づき、中国国籍の付与が許可された場合に発行される建前となっている。
しかしながら、一行の中国国籍取得手続は、一行の養父が、日本の警察に該当する公安局から一行について中国国籍を取得する手続をとるよう再三求められ、また、中国における一連の政治運動の渦中にあって、日本人孤児を養育することが政治的に不利であったことなどから、一行の承諾を事前にも事後にも得ることなく、全くの無権限で行ったものである。
(二) また、平成二年一月九日の福島地方法務局郡山支局担当官による一行及び崔からの事情聴取において通訳をした甲野は、その能力に不十分な点が多く、一行らも、我が国に対する望郷の念や、官庁に対する畏怖の感情などから、聞かれたことに対して原則として逆らわず、安易に肯定の答えをしたものであって、右事情聴取の際に作成された聴取報告書には一行及び崔の意思ないし供述に反する記載がされているものであり、加えて、国籍喪失届についても、一行は、その書面の意味が分からないままに提出したものであって、これらをもって一行が自己の志望によって中国国籍を取得したものと結論付けることはできない。
(三) したがって、一行は、自己の志望によって中国の国籍を取得したことはなく、日本の国籍を失わなかったものである。
第三 争点に対する判断
一 甲二号証(本件入籍証書)及び弁論の全趣旨によれば、本件において、被告が、一行が自己の志望によって中国の国籍を取得したと主張している一九六一年(昭和三六年)当時の中国では、国籍の取得等に関する成文の法規は存在しておらず、その法制の具体的内容は必ずしも明らかではないが、少なくとも、生来的に外国の国籍を有する者も、居住地の県又は市の公安局に申請することによって、中国の国籍を取得することができるという制度が存在していたことが認められる。
もっとも、日本国民が自己の志望によって外国の国籍を取得したことにより、旧国籍法八条の適用を受けて日本の国籍を失うという効果が生じるためには、当該外国が国際法上我が国によって承認された国家であることを要するものというべきである。そうであるとすれば、前記のように、中国において自己の志望による国籍取得の制度が存在していたことを前提としても、我が国の中国政府未承認当時に行われた中国の国籍の取得の効果は、法的には未だ潜在的なものであって、この場合の中国の国籍の取得の法的効果は、我が国が中国政府を承認した日である昭和四七年九月二九日になって初めて顕在化するものと解するのが相当である。
したがって、自己の志望による中国の国籍の取得に基づく日本の国籍の喪失の効果も、右時点で初めて生ずるものというべきであることは、被告の主張するとおりである。
そして、甲二号証によれば、一九六二年(昭和三七年)二月一二日付けで、原告が中国国籍を取得したことを証する中国国務院発行に係る本件入籍証書が作成されていることが認められ、このことからすれば、そのころ、一行について中国国籍の取得手続がされ、少なくとも中国政府は、一行を中国国籍を有する者として扱っていたことが推認される。
二 ところで、本件において被告は、一行は昭和三六年ころ、自己の志望によって中国国籍の取得を申請し、その許可を得たものである旨主張する。
そして、乙三号証(一行からの聴取報告書)によると、平成二年一月九日に福島地方法務局郡山支局の担当官が甲野を介して一行から行った事情聴取の際に、一行は、中国で特に外国人ということで差別されたことはなかったが、中国人になれば、日本人、日本人といわれていじめられないと思い、一九六一年(昭和三六年)に自分で居住地の村長であった秀之清を通じて中国国籍の取得を申請し、翌年入籍が許可されたとの供述を行ったとして、そのような内容の聴取報告書が作成されていること、乙五号証(一行からの聴取報告書)によると、平成二年二月三日に担当官が宋を介して一行から行った事情聴取の際に、一行は、乙三号証の内容については妻の生年月日のほかは誤りはなく、自分が日本国籍を有していないことも承知したとの供述を行ったとして、そのような内容の聴取報告書が作成されていること、乙七号証の一(国籍喪失届)によると、一行は、志望により新たに中国の国籍を取得したことを原因として、平成二年二月二二日、郡山市長に対し日本国籍の喪失届を提出していることが認められる。
また、乙四号証(崔からの聴取報告書)によると、平成二年一月九日に担当官が甲野を介して崔から行った事情聴取の際に、崔は、一行は、特に周囲から差別されてはいなかったが、中国に残留していると思われる母親らを探す必要上中国国内を自由に動けるようにするため、自分で中国国籍への入籍許可申請を一九六一年(昭和三六年)にし、翌年許可が下りたとの供述を行ったとして、そのような内容の聴取報告書が作成されていることが認められる。
三 そこで、被告の右主張について検討する。
1 証拠(甲一二号証の一、二(崔の供述録取書)並びに証人甲野春子、同崔玉蘭及び同福本成晃の各証言)によれば、まず、甲野の通訳としての適格性については、以下の事実が認められる。
(一) 甲野は、昭和五年に長野県に生まれ、昭和一六年ころに当時の満州国に渡り、昭和二一年ころに中国人と結婚したいわゆる中国残留婦人であり、昭和二二年ころに同じ生産大隊にいた一行と知り合ってから、同人とは親しく付き合っていた。
(二) 甲野は、我が国で小学校に四年まで通ったほかは、満州国で高等小学校に二年生まで通ったが、その後は学校教育を受けていない。
甲野は、昭和六三年四月ころに我が国に永住帰国したが、その後も家の中では家族と中国語で会話をしていたことなどもあって、平成二年一月の時点では、まだ日本語の聴解力及び表現力はともに十分なものとはいえない状態にあり、一行らからの事情聴取の際にも、担当官からしばしば同じ質問を繰り返されることがあった。
(三) 甲野は、中国人の行く学校に通うなどして中国語を体系的に学習したことはなく、中国人と結婚して以降、夫や義父との会話を通じて自然と中国語を身につけたものであって、日常会話ならともかく、難解な言葉や漢字の中には分からないものも多い。
(四) 甲野は、昭和一八年ころから左耳が遠く、左耳では自分の話したことも良く聞き取れないほどであり、また、喘息炎のためにしばしば会話を途中で中断せざるを得ないことがある。
以上の事実が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
そして、これらの事実を総合すると、甲野は、日本語と中国語双方の理解力及び表現力の点において、平成二年一月九日の一行及び崔に対する事情聴取の際に、質問者である担当官や、被質問者である一行及び崔の意思ないし供述に沿った正確な通訳をするには難があったことが推認されるところである。
また、乙三号証には、一行の長男の生年月日として「一九六一年(昭和三六年)二月二六日」、一行の次男の生年月日として「一九六三年(昭和三八年)一〇月一〇日」との各記載があるところ、甲六号証の一(公証書)、甲七号証(公証書)及び甲一二号証の一によると、一行の長男の生年月日は一九六三年二月二六日、一行の次男の生年月日は一九六四年九月一〇日であることが認められるし、同じく乙三号証において一行が中国国籍の取得申請の際に代筆を頼んだ人物として記載されている「村長の秀之清」についてみても、証人甲野春子及び同崔玉蘭の各証言によると、当時の中国では村長という役職はなかったものと認められる上、「秀之清」という姓名自体、当時の中国に実在していなかった疑いすら存するところである。
そうすると、乙三号証及び四号証における事情聴取についての各記載が、一行の入籍手続に係る同人及び崔の供述を正確に記載したものといえるかどうかについては、なお疑問があるというべきであり、これらをもって、一行が自己の志望によって中国国籍への入籍手続を行ったと認めることはできないものといわざるを得ない。
2 また、証人宋淑子の証言並びに乙五号証及び八号証(宋の陳述書)によると、宋は、その通訳能力に問題がなく、平成二年二月三日に担当官が行った事情聴取の際にも、担当官や一行の供述の真意を的確に伝達する能力に欠けるところはなかったものと一応認められるが、乙五号証の記載は極めて簡潔なものであって、右記載だけから、右事情聴取において担当官が一行に乙三号証の内容について確認し、一行の日本国籍は喪失したものとして扱う旨の説明をした際に、一行がその説明の内容を真に理解していたものと認めることには躊躇せざるを得ない。むしろ、甲一三号証の一、二(一行の陳述書)によれば、右事情聴取のときには、一行は、これから自分の日本国籍の喪失手続がされることについてほとんど理解していなかったのではないかと疑われるところである。
3 また、証人崔玉蘭及び同福本成晃の各証言によると、一行は日本語についても中国語についても読み書きが不自由であったことが認められるから、乙六号証や七号証の一の自署部分についても、一行が文書の内容を真に理解した上で、日本国籍を失うことを納得して記載したものとまで認めることはできないものといわざるを得ない。
四 本件において原告は、一行の中国国籍への入籍手続は、一行の養父が、一行に無断で行ったものである旨主張している。
そして、甲一二号証の一、一三号証の一、二、一四号証の一、二(福本成晃の陳述書)及び一八号証(原告本人の陳述書)並びに証人崔玉蘭及び同福本成晃の各証言中には、一行が自らの任意の意思で中国国籍を取得したことはなく、一行の入籍手続は、日本人孤児を養育していることで政治的に不利に扱われることを恐れた一行の養父が、一行に無断で行ったものである旨の右主張に沿った記載部分及び供述部分がある。
そして、右各証言は、その大筋において一致しており、内容においても特段不自然な点は認められないから、原告の右主張のとおり、一行の入籍手続が一行の養父によって無断でされたということも、十分あり得ることであると認められる。
なお、原告が、当初、一行は公安局などからの強制によって、心ならずも自ら入籍手続を行ったものと主張していたのに、後に一行の入籍手続は一行の養父が勝手に行ったものである旨の崔らの証言が出るに及んで、その証言に合わせて主張を変更した経緯からすれば、原告の主張は一貫性を欠くものといえる。
しかしながら、甲一三号証の二及び一八号証によれば、一行自身が、生前、自分で中国国籍取得の申請をしたことはない旨陳述していたこと、その陳述書は原告の姉が保管していたこと、原告が本訴提起の具体的な準備を始めた際には既に一行は死亡しており、原告代理人らにとっても一行が本件入籍証書を所持するに至った経緯について調査するのは困難であったことが認められ、かかる事情に照らすと、原告の主張が変遷したことだけで、前掲各証拠に信用性がないとまで断ずることはできない。
以上みたところに照らすと、一行が自らの志望によって中国国籍を取得したとするには、なお疑問の余地があるということになる。
五 ところで、一行が生来的に日本国籍を取得したことは、当事者間に争いがないのであるから、原告の出生時までに一行が日本国籍を喪失していたこと、すなわち、一行が原告の出生時までに自己の志望により中国国籍を取得したことについては、一行の日本国籍の喪失を主張する被告がその立証責任を負担しているものと解すべきである。
そして、既に摘示したとおり、一行が自己の志望により中国国籍を取得したという事実については、未だ被告の立証がされていないというべきである。
したがって、原告の出生時において、一行は、日本国籍を有していたものというべきであり、原告は、旧国籍法二条一号の規定により、出生によって日本国籍を取得したことに帰する。
六 結論
以上のとおりであるから、現に日本国籍を有することの確認を求める原告の請求は理由があるので認容することとし、訴訟費用の負担について、行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官富越和厚 裁判官竹田光広 裁判官岡田幸人)